乾いた地は望む



 バザーの喧騒。

 香辛料の匂い。


 砂埃の味。


 どこもかしこも暑く乾いている。


 私がこの地に着いたのは、ほんの四時間前だ。


 肌が乾いていくことにもまだ慣れていない。



 飛行機から降りて一時間と経っていなかった。

 買った女は言葉が通じた。


 女が私の肌に手を滑らせ言った。


「綺麗ね」

 思わず苦笑いした。


 なるほど、確かに女の肌よりも随分きめが細かく滑

らかだった。


 あのまま自国に留まっていたら、一生知ることはな

かっただろう。


 私にとってはどうでもいいことだが、女は羨ましそ

うに眺めた。


 女は乾燥地帯特有の肌をしていた。


 きめが粗く、当然の如く乾いていた。


 だが、それも行為に及ぶ直前までだった。


 私は女の肌ばかりか、声までも熱く湿らせたのだ。


 奉仕させるために買った女を夢中にさせることに夢

中になった。


 そう演じることに夢中になった。


 だから、いささか気狂いじみていると思えるほど優

しくなれた。


 女は金を受け取ったが、財布を掏るような真似はし

なかった。


 正直、意外に思った。


 その考えを見透かした女は笑った。


「あんた、イイ人そうだから」


 私も笑った。


 女は考え違いをしていた。




 バザーの喧騒は眩暈を起こす。

 香辛料の匂いは吐き気を催す。


 砂埃の味は不愉快以外の何物でもない。


 女と交わってから、私は私らしくなっていた。

 演じる必要などないのだと実感した。

 何故なら。

 肌が。


 肌が乾く。



 白い土壁の迷路を彷徨った。

 狭い道の両脇は、物売りと物乞いが同居していた。


 どちらの餌食にもならないよう注意深く歩く。


 スリにも用心しなければ。


 目の前に数人の子供が現れれば、どんなに狭い道で

も不自然なほど迂回する。


 あいにく私には、子供は天使だという考えはない。


 当然、子供達はもっと楽に仕事をさせてくれる観光

客を求めて消えていく。


 私が迂回する本当の理由を彼等は知らない。


 いや、知らない方が身のためだろう――


「おっと…」


 小さな何かがぶつかってきた。


 小さな手が上着の内ポケットに伸びるのを、私は見

逃さなかった。


 細い腕を掴む。


 財布が落ちる。

 私達の黒い影の上を砂埃が走った。


 だが、小さな男の子が見ているのは財布でも掴まれ

た腕でもない。


 怯えた瞳に私が映る。


 怯えた瞳が私を誘う。


 ここには。


 いつの間にか辿り着いてしまった袋小路には、私達

以外誰もいない。



 肌が乾く。


 強張る。


 ひび割れる。



 再び人ごみに身を投じた。

 適度に興奮している所為か、男の気配に気付かなか

った。


 派手な装身具を身につけたその男は、私の腕を引っ

張り何やら喚く。


 どうやらまじない師か何かのようだ。


 自分のテント張りの店に連れ込むつもりだった。

 周りの人間は各々客に対する売込みに熱を入れてい

る。

 助けは期待できない。


 私は通じない言葉と身振りで拒絶しようとした。


 だが、次の瞬間。


 男は突き飛ばすように私を離し、蒼ざめた顔で呟い

た。


 何度も何度も。


 ようやく私にも意味のわかる言葉が聞けた。


 嬉しくなった。

 だから、微笑んでやった。


 男は足をもつれさせ店の中に消えた。


「悪魔!」


 そう呟きながら。


 私は男の後に続いた。

 男が見たものを教えてもらわなければならないから

だ。



 崩れる。


 粉々になる。


 風。



 違う土地を訪れれば、違う自分になれるような気が

した。


 飛行機に乗りさえすれば、スイッチが切り替わるよ

うに、まったく新しい自分に会えるのだと。


 あまりに馬鹿馬鹿しく幼稚な考え。


 と同時に、その時の私にとっては酷く魅力的に思え

たのだ。


 だが、実際には。


 私は何ひとつ変わることはなかった。


 私は私だった。


 感情の赴くままに行動する、このうえなく単純な人

間だった。


 そして。


 凶暴な人間だった。



 風に運ばれる。

 運ばれ、降り注ぎ、迎えられる。


 歓喜と共に。



 その日。

 私がこの地に着いたその日。


 三人の血が流れた。


 私は干乾びた土地に赤い潤いを与えた。


 三人共、自ら私の腕に飛び込んできたのだ。


 まるで神への捧げ物のように。


 だから。


 仕方がなかったのだ。


 この地が私を求めたのだ。


 乾いたこの地が。
                     (終)

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