いつか朽ちるまで                 2007.08.21



 ふと気が付くと、私はうら寂しい場所に立っていた。

 荒涼とした大地は堅く乾き、白く枯れた枝がいくつも生えているか突き刺さっている。

 点在するそれは、まばらでも密集しているわけでもない。

 微かな風にも反応した砂が舞い上がって、時折視界を遮る。

 ぼんやりと目に映る遠方にも、乾いた大地と白い枝は続いている。

 見上げると、雲に厚く覆われた空は死んだ魚の目のような色だ。

 ようやく私は、自分が見知らぬ場所に存在するという異状を理解した。

 更に、一糸纏わぬ姿であること、首を巡らせることは出来るがこの場からは一歩も動けないと

いうことも。

 足を地面から離せない。

 膝から下の感覚が麻痺してしまっている。

 どれほど力を入れてもがこうと無駄だった。

 裸であることの羞恥心は、自分以外に誰もいないと思っていたため、さほど感じなかった。

 だが、ある程度冷静になってもう一度周囲を見渡した途端、数メートル離れた左側斜め後ろに

女性がいるのが見えた。

 私は酷く動揺した。

 と同時に、この状況の説明が欲しいという欲求から、やっとの思いで彼女に声をかけた。

 彼女が上半身だけで振り返り、同情とも憐憫とも取れる表情を向ける。

 私はそれが彼女自身に向けられたもののように感じ、瞬時に彼女も自分と肉体的にも精神的に

も同様なのだと悟った。

 そして、何より彼女は美しかった。

 その裸体からしばらく目が離せなかった。

 下半身こそこちらに尻を向けているものの、胸は肩の線から僅かに覗いて見えていた。

 私は――今更だったが――思わず見惚れてしまった事実を取り繕うように視線を逸らした。

 彼女は別段気にする様子でもなかったが、この時ばかりは自分と彼女が一歩も動けないこと、

彼女の視界からも自分は後ろ姿であることを有難いと思った。

 私はまず名乗り、何故こういった状況に置かれているのかさっぱりわからないと言った。

 彼女は、自分にもまったく心当たりがないと言った後、名乗った。

 私たちは真正面で向き合うといった基本的な姿勢が出来ないまま会話を続けた。

 何十分、もしかしたら何時間だったかもしれない。

 時間の感覚はここには存在しなかった。

 ここがいったいどういう場所で、私たちが何故ここにいてこのような姿勢を強いられなければ

ならないのかといった疑問をいくらぶつけ合ったところで、結果は堂々巡りだった。

 つまり、いくら考えてもわからないのである。

 私と彼女は互いのことを話した。

 何かふたりの共通点と呼べるものがあれば、それがここにいる理由になるかもしれない。

 私にとっては、純粋に彼女を知りたいが故に、喜んで自分のことを話すに過ぎなかった。

 ただ、たったひとつの事実を除いて。

 私たちに共通する話題はないに等しかった。

 互いがあまりに違いすぎて、このような状況でなければ相性を判断する間もなく別れ、一緒に

過ごすなど考えられなかっただろう。

 私は皮肉にも、この奇怪な出来事に感謝すらしていた。

 それほどまでに彼女に惹かれていた。

 容姿はもちろん、その物静かで知的な喋り方や、語る内容の客観的でユーモラスな解釈に酷く

魅了されていた。

 果たして、彼女はどうなのだろう?

 私を嫌ってはいないだろうか?

 通常、気に入らない相手ならば距離を置くなり、あるいはさっさとその場を去ることも可能だ

が、この互いに一歩も動けない状態で真意を推し量るのは容易ではない。

 欲目や希望的観測からかもしれないが、彼女の顔や声の表情に苛立ちや不快感が隠されている

とは思えなかった。

 それでもやはり不安だった。

 彼女が、この場所が私を不安にさせていた。

 彼女は今、愛猫の話をしている。

 残してきたことを後悔し、きちんと餌を食べているだろうかと心配している。

 私は動物が苦手だったが、この場にいないのをいいことに平静を装って訊ねた。

「何故残してきてしまったんだい?」

「……何故かしら。私がここにいる理由と同じくらいわからないわね」

 そのとおりだ。

 わからない。

 思い出せない。

 それとも、この現象は『あのこと』と何か関係があるのだろうか?

 意識的に避けている、『あの事実』と?

 言うべきだろうか?

 それを聞いて、彼女は何と思うだろう?

 嫌われる?

 いや、好かれているかどうかすらわからないのに?

 ならば尚更だ。

 今、言うべきなのだ。

 それに、どうやら彼女はここにいる理由について気付いている節がある。

 言葉の前にあった間は、考えてではなく迷って出来た間のような気がした。

 私は彼女に背を向けたまま言った。

「まだ君に話していないことがあるんだ」

 彼女はただのお喋りの続きだと思ったらしく、口元に笑みを浮かべて小首を傾げた。

「私には妻がいると言ったね?正しくは、いた。被害者じみて聞こえるかもしれないが、いや、

実際私自身そう思っているに他ならないんだが、私は妻に裏切られたんだ。彼女には男がいて

ね。ただの浮気、身体だけの関係なら、私も我慢出来ただろう。原因が私にあるというのなら、

改善するよう努力も惜しまなかっただろう。だが、妻はその男を愛していた。私が妻を愛する

ように、その男を愛していたんだ。それを知った途端、妻への気持ちは冷めた」

 ここまで一気に話した私は口をつぐんだ。

 狡猾な意識が蠢き、記憶を、真実を隠しているのだ。

 すると、彼女が僅かに震える声でこう言った。

「一緒ね」

 私は振り返った。

「一緒だわ、わたしたち」

 彼女の何もかも悟ったような顔付きを透かして、荒涼とした地に点在する白い枝が見えた。

「わたしもあなたと同じよ。夫に裏切られたの」

 私にもようやく合点がいった。

 ここは墓場なのだ。

 枯れて立つ白い枝は骨だった。

 私たちは墓標だった。

 彼女が悲しげに微笑む。

「あなたも、殺したのね」

 これ以上、自分を偽れない。

 そう、私は妻を殺した。

 許せなかった。

 あの男に奪われるくらいならばいっそのこと、とそう思ったわけではない。

 自分のちっぽけなプライドを満たすためだけに妻を殺したのだ。

 妻の首をこの手で締め上げ、消え行く命の炎を見つめて満足した。

 力なく横たわる妻の重みを腕に感じ、満たされた気持ちと同時に空虚さをも味わった。

 何もかも、すべてを失った。

 続いて私は、意識が隠し続けようとした行動を取った。

 自分を殺したのだ。

 自宅であるマンションの屋上からこの身を躍らせた瞬間、幸せだった。

 愛することにも憎むことにも疲れていた私にとって、あらゆるものから解放された時間がそこ

にはあった。

 そして。

 愛することにも憎むことにも疲れていたはずの私は、今また同じ過ちを繰り返そうとしている。

 想いはもう戻れないところまで来てしまっている。

 私は彼女を愛し始めていた。

 それは紛れもない事実だった。

 だが、姿を見て声を聞くことは出来ても、手は届かない。

 例え、互いに腕をいっぱいに伸ばしたところで、空気の壁は十二分に厚い。

 私が表現出来るのは、気持ちの上か、良くて言葉に乗せられるだけだ。

 故に、仮に彼女を憎む時が来るとして、この場を去ることも、また傷付けることも叶わないの

だ。



 私たちは、この停滞した環境の中でやがて朽ちる。

 後には白い骨の墓標となって。

 それが、被害者でも加害者でもある私たちへの罰なのだ。

 特に私にとっては、彼女の気持ちが推し量れぬ今、ここは地獄でしかない。

 万に一つの可能性として、彼女が私を受け入れてくれたのだとしても。

 このまま手を伸ばしても届かぬ人を想いながら、彼女とともに白く枯れた枝に変わっても立ち

続けなくてはならないのだ。

 ずっと。


 ただ、ずっと。



                                        (終)



                    back