ダーリーン
                      2006.08.27



 脳が揺れる。

 景色が揺らぐ。


 ベッドは俺を受け損なって、床が相手をしてくれた。


 汚れたカーペットから救い出された俺は、男に感謝することなく、更な

る乱暴な扱いを予想して身構えた。


 いや、身構えようとしただけだった。


 支えられなければ立つこともままならない状態で、いったい何が出来る

だろう。


 鼻の折れる音を聞きながら、彼女よりも遥かに暖かい暗闇へと避難し、

記憶が途切れるに任せた。



 彼女の夫だと自称する男は俺の二倍はありそうだった。


 上背を横幅も。


 そのいかつい男に殴られる俺を、彼女は見ていた。


 頬を紅潮させ、息遣いが荒かった。


 そして、満面の笑みを浮かべていた。


 俺は訳がわからず、ただ混乱していた。




 どちらも服を脱ぐ前だった。

 俺達は寂れたモーテルの一室で、互いの唇を貪り合った。

 俺は文字通り食らい付いていて、彼女の上等なコートを俺のスーツと同

じ皺くちゃにしそうな勢いだった。


 彼女の味見するかのような動きに散々じらされ、自分だけが欲しがって

いるのかと無性に腹が立った。


 痺れを切らし、彼女をベッドに引き倒した。


 ふと、背後に気配を感じた。


 振り向く間もなく首に太い腕が回り、羽交い絞めにされた。


 男が言った。


「女房の所為で……。すまん」




 からかわれるだけなら、確実にものに出来る女の方が良かった。

 ダーリーンよ、と自己紹介されたが、初め彼女を快く思わなかった。


 だが、やはりあの容姿や仕草にはあがらえなかった。


 人恋しい人妻の愚痴を聞くだけでも十分じゃないか、と自分を諭しなが

ら。


「夫はね、貿易商で輸入食材を扱ってるの。港の倉庫群を見たことあるで

しょう?」


 俺はかぶりを振った。


「この町には着いたばかりで、どこに何があるのかなんてさっぱりさ」


「ふーん、そうなの。とにかく、あのひとつはうちのだし、中には巨大な

冷凍庫があってね。いろんなお肉がぶら下がってるのよ」


「変わったものもあるんだろうな」


「そうね、ダチョウだとか馬だとか。でも、私が好きなのは――」


 彼女の片手がカウンターの下に消えた。


「人間の身体の真ん中にあって、興奮すると硬くなる部分ね」




 ふらりと立ち寄ったバーに彼女がいた。


 似つかわしくないと思った。


 艶やかで上品な印象だった。


 だからなのだろう。


 男性客が何人といるのに、誰も彼女に声を掛けようとはしなかった。


 あんなうらぶれた店でさえ、いくら酔っていても身分をわきまえる客ば

かりだった。


 いや、ひとりわきまえない客がいた。


 彼女自身だ。


 彼女は俺に声を掛けた。




「いい加減に起きてよ、ねぇ。楽しませてくれるって言ったじゃない」


 俺は暗闇から戻って来た。


 彼女が見下ろしている。


 その微笑の上に明かりがあった。


 夢だったのか。


 あの男は俺の罪悪感から生まれたものだったのか。


 いや、違う。


 全身が痛い。


 特に顔が。


 視線を彼女から外す。


 俺を照らす明かり以外はすべて暗かったが、ぼやけた視界からでも、こ

こが先程までのモーテルの一室ではないとわかる。


 酷く広々としていて、あちらこちらの黒く大きな影はコンテナやダンボ

ールが山積みになって出来たものだ。


 腹の内に、漠然とした恐怖が広がってくる。


 確かに俺は運の悪い間男だが、殴り付けられて鼻まで折られて――それ

で、まだ何かあるのか。


 どういった状況なのだろう。


 必死に手足を動かしてみるが、びくともしない。


 動かないのではない。


 動けないのだ。


 青いビニールシートを被せた事務用の机に大の字に寝かされ、四肢のそ

れぞれは机の脚にロープで縛られていた。


 俺は悲鳴を上げ、もがいた。


 彼女が笑い、少し離れた場所に置いてある場違いで豪奢なソファに身を

沈めた。


 ソファの向こうから、微かに低いブゥンという音が聞こえる。


 銀色の重々しいドアの正体が何であるか悟った俺は、むせび泣いた。


 殺される。


 そう、殺されるのだ。


 多分、簡単には死なない方法で。


 その後も――。


 俺の嗚咽に彼女の喘ぎ声が混ざる。


 上等なコートの下は、ガーターベルトに吊るしたストッキングの他は何

も身に着けていなかった。


 前を肌け、一方の手で乳首を摘まんでいる。


 下半身をもう片方の手で弄び、湿った音を立てている。


 いつの間にか俺の頭上には男の顔が逆さまにあって、そいつは悲しげに

、憎々しげに話した。


「妙な話だ。実に妙な話なんだが、おれはあんたに同情してるんだ。立場

としては、女房に手を出したあんたを散々な目に遭わせたところで屁でも

ないわけだが――、あいつとおれであんたを嵌めたのはもうわかってるん

だろ?すまんな。まったく、今まで何人にこんな風に謝ったのか数えられ

ないくらいだよ。あいつはもう普通じゃ無理なんだ。元々普通なのは気に

入らなかったんだろうけど。あんたにこれからやろうとしてることが、そ

れだけがあいつを満足させられるんだ」


 話を遮るかのように、彼女の催促する声がする。


 男は両肩をひょいと上げ、やれやれといった表情を見せた。


「あんたが羨ましいよ。おれには到底出来ないことを、あいつにしてやれ

るんだから。生きたまま腹を開いて、あいつに身体中を、こぼれそうなは

らわたを舐め回させてやれる。息があるかないかのうちに、ペニスを齧ら

せてやれる。死んだ後も、あそこに保存されて、たまに夕食のメインディ

ッシュになってやれる。もちろん、おれは一口だって食わんがね」


 殴られた所為で塞がりかけている俺の目を、男が覗き込む。


「おれはあいつを愛してる。死ぬほど愛してる、といいたいところだが、

死ぬほどじゃない。この命はやれない。死ぬのはごめんだ。それに、おれ

が死んだら誰があいつを愛してやれるんだ?」


 俺は、身体中で唯一自由な首を左右に振った。


 千切れ飛ぶかと思うほど激しく振った。


 その間、何かでたらめなことを喚いていた。


 だが、この状況以上にでたらめなこと等あり得ない。


 男が俺の左側に回り込んだ。


 右手に持った調理用の大型ナイフで自慢の腕を振るうためだ。


 男が「本当にすまん」と呟く。


 俺は彼女の名を口にするが、ナイフの所為で尻切れる。


 それの走る感触に震え、内臓が呼応する。


 彼女は眉根を寄せて笑う。


 笑って笑って「誰よ、それ?」と笑う。


 やがて。


 ぱっくりと割れた俺を彼女が見て。


 俺は彼女を見て。


 彼女も息遣いが激しくなり。

 ふたりで一緒に達する。



 これが始まりだ。



                              (終)



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