懐中電灯の灯りが踊る。
 壁の落書きはファックに関係したものばかりだ。
 まったく、こんな所に自分の名前を加えるなんて!
 だがやらなければ。
 あいつ等は確かめてやると言っていた。
 朝一番で見に行くぞ、と。
 俺は赤いペンキのスプレー缶を手にすると一歩下がった。
 スニーカーがガラスの破片を踏む。
 白かったはずの壁と腐った木の手摺り、そして剥がれ掛けたリノリウムの床が、ここは元病院だと嫌でも思い出させてくれる。
 というコトは、今俺が踏みつけた破片も窓ガラスではなく、注射器だったかもしれない。
 だがそれも、患者に使ったものなのかジャンキーが使ったものなのか、そんなことどうでもいいと言わんばかりに粉々になっ
てしまっていた。

 月の光はないに等しい。
 静寂がうるさいくらいだ。
 寒いのに手のひらに汗が滲む。
 スプレー缶が滑り落ちそうになった。
 俺は毒づく。

「クソッタレ!」
 吐き捨てるように出た声の大きさに、思わず飛び上がった。
 俺の代わりに心臓が悲鳴をあげる。
 だが次の瞬間、俺も心臓も凍りついた。

 何故なら、その音が聞こえたからだ。
 廊下の左手奥。
 暗闇の、さらにずっと向こうから。

 左眼は半分塞がっていて、口の端にある切り傷はかさぶたになっているが、こんな俺にもプライドぐらい残っている。
「何だってそんなコトしなきゃならないんだよ」
 あいつ等ふたりの一方が答える。
「何だってそんなコトしなきゃならないかって?そりゃ俺達がそうしろと言ったからさ」
 もう一方が鼻で笑う。
「まさかお前、ビビってんじゃねぇだろな?マジで腰抜けだったってワケか、ああ?」
 周りの人間は黙々と豚肉を加工して、誰一人こちらを見ようともしない。
 これが日常だ。
 その同僚達よりも、さらに熱心に豚をバラしているのがあいつ等だった。
 上司は真面目な仕事ぶりだと評価しているが、実際はそうじゃない。
 誰かが言っていた。
「あいつ等、生きてる猫のはらわた引きずり出してたんだぜ」
 つまり、これはあいつ等の趣味と実益を兼ねた天職なんだ。
 誰かが言っていた。
「あいつ等、多分ホモじゃないかな」
 それはどうかと思う。
 あいつ等のつながりは心でも下半身でもなく、似たようなつくりの脳から発するイカレた電磁パルスの共振であって、よう
するに俺はそんなあいつ等の豚なんだ。

 だから。
 あいつ等だと思った。
 あいつ等の本当の狙いは俺に落書きさせることなんかじゃなく、この俺自身だったんだ!
 一週間前の脳震盪を思い出し、1ヶ月前の打撲を思い出した。

 俺はほとんどパニック寸前で、スプレー缶と懐中電灯を床に落としてしまった。
 スプレー缶は派手な音を立てて転がっていき、俺は追いかける代わりに耳をふさいだ。
 懐中電灯は足元でファンタジックな光のダンスを続け、その回転する光で俺の影を何度も壁に叩きつけた。
 やがて回転が止むと、灯りは明後日の方向へ顔を向けてしまった。
 暗闇は暗闇のままだ。
 俺は両手を下ろす。
 静寂の中にあるあの音。
 俺の頭の中でも、とびきり冷静な部分が言った。

「いったい何の音だ?」
 俺は尻に火がついたみたいに逃げ出す代わりに、暗闇を見つめた。
 もちろん怖かった。
 だが好奇心が勝った。

 音がこちらに向かってくる。
 俺は待つ。
 足音じゃない。
 耳をすませる。
 まるで、何か大きなモノが這っているようだ。
 俺は考える。
 犬、そうだ、犬かもしれない。
 あいつ等が猫じゃ飽き足らず、犬のはらわたを引っ張り出して這わせてるんだ。
 いや、待てよ。
 だったら鳴き声ぐらいしないか?
 せめてハッハッとかクンクンとか。
 犬ってのはそういうもんだろ?
 食うのと寝るのと鳴くのが仕事みたいなもんだろ?
 音が近付く。
 俺の呼吸が荒くなる。
 恐怖の対象が何であるか、見極めずに済ますにはもう遅すぎた。
 脚は床から生えたようにびくともしない。

 あってないような月の光が、うごめくそれをぼんやりと照らしている。
 頭の冷静な部分が言う。
「犬じゃない」
 そう、犬なんかじゃない。
 さらに近付く。
 俺にはわかっている。

 音が。
 それは。
 近付く。
 俺だった。

 俺は突っ立ったまま、這い進む俺を見ていた。
 俺とそいつは同時に呼吸していて俺達はお互い見つめあったがそいつに目なんかなくて口には靴下が詰め込まれてるし後ろ手に縛られた両手の向こうにはほうきの柄がケツの穴から生えてるのが見えて腹から飛び出したはらわたが遅れてついて来たから俺は叫びたかったけど口に靴下を詰め込まれたみたいに声が出なくてそいつは俺じゃないと思ったけどもしかしたら俺はすでに死にかけててこんな目にあったのは俺じゃないと思いたかったから俺は俺という意識を切り離して飛ばしてまるで傍観者みたいにただ突っ立って死にゆく俺を眺めてる俺は涙と鼻水でグショグショに濡れていた。

 だから。

 死にかけた俺の姿が薄れていくのを涙のせいにしたが、それは違った。
 俺は消えた。
 俺は残った。
 暗闇から二組の足音とふたつの灯りが現れた。
 あいつ等が俺の名を呼ぶ。
 俺の両手はジーンズの尻ポケットに伸びる。

 左にはハンカチ。
 右には折りたたみ式のナイフ。
 あいつ等が近付く。
 灯りが涙と鼻水を照らし出す。
 あいつ等が笑う。


 俺は右を選んだ。


                                        

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